この記事は第二次ベビーブームの終焉の頃に産まれ、50歳を過ぎた中年男「アントニオ」の波乱万丈な半生を綴った第四章、海外再進出から、帰国後再進学をして新たな仕事に就くまでを振り返った備忘録です。
「人との出会い」と言う食べ物で、どのように人が成長するのかを書いております。どうぞ最後までお付き合いください。
心の整理のために旅に出た・・
解雇をなかなか受け入れられず、次は何をしようかという心境だったのでやっぱり旅に出ました。北海道の奥尻島が地震で壊滅的な被害があった年です。この旅でその後の人生に大きく影響を与える出会いもありましたが、それは後からわかること。ここでは次に何をするかしか考えられなかったので次に取り組むべき事に集中していました。
やっぱり出た答えは「海外挑戦を続けよう」でした。
次に選んだのは海外の企業ではなく日本の組織で、そこに参加するために選んだ仕事が「測量士」でした。
測量の仕事で今度は地球を相手にするぞ、が目標になりました。
日本の組織に参加してアフリカで活動
訪れた国はアフリカのエチオピアでした。人類発祥の地と言われています。ミイラの「ルーシー」が発見された国、最初の東京オリンピックのマラソンで素足で完走どころか優勝してしまった「裸足のアベベ」の国です。
活動の内容は干ばつ飢餓の絶えない地域に植林を施している現地NGOと組んで測量作業を支援する。でした、が、活動は満足いくものではありませんでした。
活動は不満足、でも得たものと学んだことは多い
活動のことを話し出すときりがないので、ここでは触れませんが今となっては活動が満足いくものではなかったことがその後の人生をより良いものにしたとわかります。二回目の海外は初回が中途半な結果で遺憾だったので、先ずは決められた期間を全うする事が最も大きな目標としていました。2年を満了したのは収穫で満足いくものでした。
帰国して1年は土木の世界に戻りましたが、エチオピアで目の当たりにした「教育を望むのに受けられな子供たちがいるという現実」と「技術屋がいくら良い物を創っても消費する側が使用しなければだめだ」と言う思いが日々強くなり人にかかわる仕事に就く決心をして再進学しました。
人にかかわるのならば教育だ、と考えられずゆりかごから墓場までを担う医療のリハビリテーションセラピストになりました。
しかし、この仕事も3年目で大きな壁にあたります
障害を負った後からではなく、健康なうちから
セラピストの仕事を続けていくうちに「障害を負ってからでは遅い」と気づきました。病気になる、障害を負う、それからいくら頑張ってリハビリをしてももう元には戻りません。
そうなると人は心に余裕がなくなり自分以外のことが考えられなくなります。いや、そうではない。病気に好かれる性格もありそうだ、なぜそうなるのか、と考え始めたときに一筋の光が見えた気がしました。
それが健康なうちから「未病・予防の取り組みをする」でした。
続きは最終章の第5章でお届けします。どうぞよろしくお願いします。
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