この記事は第二次ベビーブームの終焉の頃に産まれ50歳を過ぎた中年男のアントニオの波乱万丈な半生を綴った第三章、社会人としてデビュー、そして解雇・挫折までを振り返った備忘録です。
「人との出会い」と言う食べ物で同人が成長するのかを書いております。どうぞ最後までお付き合いください。
出会いを求めて海外へ・・
大学は居心地が良かったので5年通いました。わざと留年してまで。おかげで2年生の時には四国を、3年生の時は北海道を、4年生の時は日本一周を、5年生の時は再び北海道を旅して、たくさんの出会いを経験しました。
単一民族とされる日本でこれだけ興味深い出会いがあるので世界に出ればもっとだ、まして地球環境を見なければならない、そういう思いから卒業後は海外に行けないかと、考えるようになりました。
時はバブル経済がはじけたばかりのまだまだ経済的に豊かな日本、なんと石油の外資系の会社が私の大学にリクルートに来て会社概要を説明してくれるではないですか。これは乗らない手はないと就職試験を受けたところなんと内定が出たのです、信じられない出来事でした。
日本の新卒が通用するほど甘い世界ではなかった外国の企業
初の海外は石油会社からの派遣で行った「オーストラリア」の語学研修でした。そこでは一般の語学留学性もいましたので、仕事と言う感じではなかったです。
3ヶ月の互角研修を終えて次に行ったのは石油王国「サウジアラビア」。石油の現場でも平気で「野良らくだ」が来る場所でした。
バブル経済の頃に学生を終えた私たちは世の中から何を考えているのかよくわからない「新人類」と呼ばれたものでした。でも、仕事に関しては何をやってもお金になる時代だったので、仕事は待っていれば来るもの、先輩や上司が教えてくれるもの、と言うのが日本の常識となっていました。
外資系というより日本人以外の外国の方は自己アピールが上手です。これを学んだからやらせてくれ、これができるから仕事をくれ!皆貪欲です。そんなことをせずとも仕事が来る日本で育った学生は自己アピールが出来ず、「仕事ができないやつ」というレッテルを張られてしまったのでした。
自分をアピールできない日本人、帰国を命じられる
今となって考えると会社からは数回チャンスを与えられたと思うのですが、当時の私にはそんなことも考える余裕がなく、ただ世界中の人が集まる石油の現場に翻弄されるばかりでした。
迷ってばかりで何をしていいかわからない日々が一ヶ月ほど続いた後いきなりマネージャーに呼び出されて言われたことが
「日本に帰るか?。」でした。
中途半端な負け犬・・
23歳で就職して7年間は日本に帰らないぞ、と心に誓って出てきたのに1年もたたないうちに帰国命令。その状況が受け入れられないままに日本支社で働くようになりました。
心の準備ができていないので、日本支社でもダメダメ君でした。
日本支社で半年経過したある日、日本支社のマネージャーに呼び出され言われた言葉が「明日からもう来なくていいぞ」でした。
なにか自分がどうしていいかわからないまま一年が過ぎて周りに誤解ばかり与えて、最後は自分が大損をする、と言うオチがついた最初の海外挑戦でした。
続きは第4章でお届けします。どうぞよろしくお願いします。
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